……病院から帰った吉敷は、ベッドに直行した。
(疲れた……)
病院に行って疲れたのでは、何のための治療だかわからない。そんな事を思いながら、ベッドに横になって休んでいると。固定電話が鳴った。
「誰だよー……」
両親はいない。仕事だ。吉敷が出るしかないが、――どうせセールスかイタズラ電話だろう。そう思って放っておく。うつ伏せのまま呼び鈴を聞いていると、留守電に切り替わった。「メッセージをどうぞ」というアナウンスの後、相手の音声が流れ始める。
『もしもし。高島と云います。御門高校弓道部で、吉敷君と御一緒してます』
――吉敷は瞬時で、目を見開いた。ガバ! と跳ね起きる。
『ちょっと聞きたい事があったので、電話しました。大した事じゃないので、また明日。ゆっくり休んで下さい。失礼しま――』
「はいっ! はい、志村です! 五十鈴先輩!?」
間一髪。吉敷は受話器を引ったくり、応答した。
寸刻の沈黙。切れてしまったか――と、吉敷が肩を落としかけた時。
『志村?』
五十鈴の声が、耳許で聞こえた。
「……はいっ! はい、俺ですっ。すいません、ちょっと寝てたもんですからっ」
『そうか。悪い、起こして』
「いえ、とんでもないっ。……それで、あの……?」
思わず正座までして、吉敷はお伺いを立てていた。――聞きたい事があると云っていた。一体何だ?
全身を緊張させ、聴覚に神経を集中させる。それを知ってか知らずか、五十鈴は淡々と話を始めた。いつも通りに。
『検査は、一日がかりか? 大変だったな。御苦労さん』
「いえ! 俺は寝てるだけですから。大した事ないです」
『結果は? いや、まだわからないだろうけど』
「そうですね、詳しい結果は出てませんけど。お医者さんの感じからすると、現状維持、ってところですかねー」
『そうか。悪くなってないなら、よかった』
声がほんの少し、微笑の響きを帯びた。ような気がした。吉敷は信じられない思いで、それを聞いていた。五十鈴が吉敷宛てに、個人的に電話。いや、何かの連絡かも知れないが。例えそれでも、入学当時には想像もしていなかった。
ぽけ……と魂を飛ばしている吉敷に、いい声が唐突に聞いた。
『志村は、映画は見るか?』
「ほえ?」
パチクリとまばたきし、吉敷はボクトツと答えた。
「……はあ。見ます、たまに。大好きって程じゃありませんけど、嫌いって事もないです」
『うん。そうか』
――吉敷は俄に、心臓が踊り出すのを感じた。まさか、と思うが、まさかまさかまさか本当にまさか――
『じゃあ、苦手なジャンルってあるか。時代劇が嫌いとかホラーが駄目とか』
「あ、ええと、ホラーは苦手……かな。特に血がいっぱい出るやつとか、あと日本のやつも駄目です。あとは結構、何でも。あ、感動巨編! 必ず泣けます! とか、そういうのもちょっと駄目かも」
『……ふうん? 何で?』
「いや、俺、泣くとすっごいみっともなくなるんですよ。顔が」
『……へえ?』
五十鈴の声に、更にもう少し笑いが乗る。吉敷は、顔が赤くなるのを感じた。電話でよかったと心底思う。
「自分でも情けないんですけど。涙と鼻水が一緒になって、だだーっと流れて、それはもう大変な事に」
……くつくつと、五十鈴が笑っている。吉敷は汗を拭いながら続けた。
「だからそういうのは、映画館じゃなくて、一人でこっそり見たいんです。なので、そういうの以外なら」
『わかった』
五十鈴は笑いながら、あっさり切り出した。
『今週末、空≪あ≫いてるか? 土曜でも日曜でも』
「え、えっと」
いったん収まっていた心臓が、再びステップを踏み始める。吉敷は唾を飲み込んだ。
「空いてます。土日両方」
『じゃあ土曜がいいか。映画見に行かないか。アクション映画なんだけど』
吉敷はしゃきんと背筋を伸ばした。
「行きます!」
†
……待ち合わせ時間より三〇分も早く、吉敷は映画館前に到着した。
(うわー、うわー、うわー)
流石に実行動にまでは至っていないが、内心では右往左往の吉敷である。心臓はパコパコと音を立て、タップダンスで踊り回っている。放っておいたら、どこかに逃げ出していきそうだ。――心臓の病気でなくてよかった、と、吉敷は不幸中の幸いに感謝した。
「落ち着け、落ち着け志村吉敷。平常心だ平常心」
ぶつぶつ云っている時点で既に、挙動不審である。道行く人に不気味がられないよう、吉敷は背後の壁を振り返った。掲示板にはずらりと、映画のポスターが貼り出されている。その中の一枚に目を留める――
不治の病に罹ってしまった女性の、悲恋ものだ。実話に基づいているらしい。吉敷はぼんやりと、それを眺める。
(不治の病、かあ……)
癌はほぼ克服されつつあるが、最近は、スクイーク病という新手の病気が出現している。病そのものを根絶させる事は、おそらく不可能なのだろう。だから――
(……仕方ない、よな)
この女性にしても、吉敷にしても。特別聖人ではないが、悪人という事もない(だろう)。それでも病気にはなるし、死ぬものは死ぬ。どうしようもないのだ。だから、だから、――だから、
「志村」
――名を呼ばれて、吉敷はハッと我に返った。慌てて振り返る。
五十鈴が立っていた。
「おっ、おはようございますっ……!」
最敬礼しかねない勢いで挨拶し、――吉敷の目は五十鈴に釘付けになってしまった。
五十鈴は私服だった。当然だが。特に何の変哲もないTシャツにジーパン、シャツを羽織ってキャスケット帽。それだけだったが、吉敷は、ほけー……とその姿に見入っていた。そんな吉敷に、五十鈴は怪訝に眉を寄せる。
「志村?」
「あっ、はい! 生きてます!」
五十鈴は首を傾げ、腕時計を見た。
「待たせたか? 一応、一〇分前にと思って来たんだけど」
「いえ! 俺が勝手に、早く来ただけですからっ!」
「……そんなに気合い入れなくてもいいのに」
五十鈴は苦笑する。吉敷は頭をかいた。確かに三〇分は早かったと、我ながら思う。だがとても、落ち着いていられる心境ではなかったのだ。
「それじゃ、入るか。チケット、引き換えるから」
「はいっ」
五十鈴はさっさと歩き始め、吉敷はいそいそとそれに続く。五十鈴の後ろ姿を見ながら、吉敷は、へにゃん、と顔を緩めた。
「俺、先輩の私服、初めて見ました」
「……そうか?」
「合宿の時は、道着かジャージでしたしね。ずっと」
「……替えのジャージは、私物だったぜ」
「それはまたちょっと、違う気がするんですけど」
「そうか」
五十鈴は発券機でチケットを引き換えると、一枚を吉敷に渡した。事前にネットで、予約しておいたらしい。そのまま出入口に向かう五十鈴に、吉敷は少し慌てた。
「あ、先輩。チケット代……」
「いいよ」
五十鈴はくるりと振り返ると、くい、と口の端を上げた。
「今日は俺の奢り」
吉敷はぱかっと口を開けた。――慌てて五十鈴を引き止める。
「え、ほんとですか!? でも何で、いや、やっぱ悪いですっ」
「ん、弁当の礼。――けど、喜ぶのは早いぜ。趣味に合わないかも知れないし」
「五十鈴先輩の奢りに文句なんか付けません! ――でも、ええと、いいんです……か? ほんとに」
「いいって云ってるんだから、奢られとけ。後輩」
こん、と。五十鈴の拳が軽く、吉敷の顳を小突いた。その感触に、吉敷はまた頭を真っ白にしてしまう。ぽかっと立ち尽くす吉敷を置いて、五十鈴はゲートへと向かっていた。もぎりの前で振り返る。
「何してるんだ? 入るぞ」
「あ、は、はい……」
吉敷は少々覚束ない足取りで、それを追いかけた。
チケットもぎりの映画館スタッフが、些か心配げにそれを見送った。



