……隣室から聞こえていた啜り泣きが、やっと止まった。
少年はごそりと、寝返りを打った。
体を起こし、布団から這い出る。左半身だけで。
右半身を引き摺って畳みを躙≪にじ≫り、PC座卓の前に辿り着く。ノートパソコンの電源を入れる。ビープ音が大きく響いた。予想済の事とは云え、どきりと心臓が痛む。
母が入って来る様子はない。
少年はタッチパッドでカーソルを動かし、右端のアイコンをダブルクリックした。笛の形をしたアイコンが点滅し、チャット画面が立ち上がる。少年は左手だけで、キーを叩き始めた。
確かに不便だ。だがもう慣れた。他人より時間はかかるが、それだけだ。もう自分で、何でも出来る。着替えも食事も、トイレも。車椅子への乗り降りも。
なのに何故あの人達は、自分を追い出そうとするのか。
何故父は、母を泣かせるのか。
立てないのは、そんなに悪い事なのか。
――本当に自由になれるの?
そう打ち込み、少年は送信キーを押した。
――なれるよ。
打てば響くように、返信は来た。
――自由になれる。学校からも、家からも。その体からも。
――その世の全ての事からね。
まるで「彼」自身は、【この】世の人間ではないかのような云い種だった。少年はしばらくその文章を見つめた後、こう打った。
――それって、死ぬって事だよね。
今度返って来たのは、沈黙だった。が、少年には、そのブランクが嘲笑のように見えた。今更何を――と嘲られている気がした。少年は返事を待たず、続けて打ち込んだ。
――でも死ぬ前に、自由な時間が貰えるんだよね?
――七二時間ね。
やはり、「死ぬ」事は避けられないらしい。――けれども。
【それだけあれば充分だ】。
少年がそう思った時、【向こう】が先に書き込んだ。
――何がしたい?
少年は慎重に、言葉を選んだ。――選ぼうとした。その前に向こうが続けていた。
――懲らしめたい奴はいる?
「復讐」ではなく「懲らしめる」という単語を使っているところに、既に罠がある。だが少年は、そこまでは見抜けなかった。――むしろ、待ってすらいた言葉だった。少年は懸命に、キーを叩いた。
――いるよ。それはね、
――ああ、名前は要らないよ。詳しい事情には立ち入らない。ただ君に、その気持ちがある事だけわかればいい。
――君にはその気持ちがある。そうだね?
少年は文字列を睨み付けると、キーを叩いた。
――うん。
――いいだろう。
「向こう」は即座に「承諾」した。
――どうする? 今すぐ来るかい?
意外な問い返しだった。しかし少年には好都合だった。疑問に思っていた事をぶつける。
――今すぐ行って、あの人達をやっつけられるの? 僕、あの人達の住所も、電話番号も知らないよ。
――大丈夫さ。【こちら】に来れば、君は全能だ。七二時間の間だけはね。それでもわからなければ、教えてあげよう。さあ、いつにする?
少年は三秒考え、そして、――決めた。
――今。
後で、と云ったら、心が鈍りそうな気がした。そして返事は、同じだけのタイムラグの後に来た。
――よく決意したね。
その文字列を見た瞬間、少年はたじろいだ。にんまりと笑まれた――ような気がしたのだ。文字だけだというのに。
だが。もう後には引けなかった。何故なら、
――それでは招待するよ。何もしなくていい。さあ、【君は自由だ】――
もう。
【契約は結ばれたのだ】。
景がブレた。
世界が転換した。色が失せ、全てが微細な0と1へ置き換わる。精緻なアスキーアートのように――
……少年の視界に、人影が一つ、浮かび上がった。
黒装束。黒頭巾。――黒子の出で立ちだった。面衣の下から、口許だけが覗いている。
彼――だろう――は、口端を薄く微笑ませ、深々と一礼した。
「よおく来たね、勇気ある子よ」
――勇気。
その言葉が、少年の心から恐怖を吹き飛ばしてしまった。代わりに高揚感が、少年を満たす。少年は思わず、身を乗り出していた。そして。
自分の体が、【動く】事に気が付いた。
「あ――手が。手が、足が、動くよ。本当に動くよ、ねえ」
興奮も露わに、少年は【立ち上がった】。目を瞠って自分の体を見下ろす少年に、黒子は謡うように告げた。
「勿論。ここは、それが可能な空間」
黒子はつうと、闇の奥を指差した。
「さあ。あれが見えるかい」
ぽう、と映像が立ち上がる。二つ。――それぞれ、別の映像が映っている。一人は電車に乗っている。一人は部屋で、テレビを見ている。
少年の顔が、険しく歪む。その傍らに、黒子はスッと寄り添った。体を屈め、耳許に囁く。
「彼らが誰だか、わかるね……?」
「当たり前、だ、よ」
幼い声に、歯軋りが混じる。――わからない筈がない。自分達を捨てようとしている父と、教師だ。母を泣かせている二人だ。【絶対に許せない】。
「……では、行っておいで。君のしたい事を、するんだ」
「うん」
少年は踏み出した。不思議な程、心が沸騰していた。
「許さない……」
熱っぽく呟き、少年は手を伸ばした――
――車中。
男は七人掛けの一番端に座り、船を漕いでいた。うつらうつらと頭を揺らしていた男は、――突然ハッと目を開けた。
(くそ、何だよ!)
いきなり、足を踏まれたのだ。こんなガラガラの車内で、と不機嫌に視線を上げ――愕然とした。
【少年が立っていた】。
男は口を開けたまま凍結した。――そんな。【そんな馬鹿な】、
「お……お、おま、お……まえ、」
『お前にお前なんて云われたくないよ』
少年の声には、微妙にエコーがかかっていた。少年は男を睨み付けると、一転、にこっと笑った。
『僕には何にも出来ないと思ってたでしょ。【お父さん】」
――手が伸びる。男の胸へ。心臓の上へ――
「……!」
絶叫が迸った。
同じ車両に乗り合わせていた数少ない乗客は、いきなりの叫び声に驚愕した。
「っ!?」
「な、何っ……!?」
発生源はすぐに判明した。男が一人、胸を押さえて転がり回っている。客の一人が慌てて、先頭車両へと走り出した。別の一人が緊急停止ボタンに手を振り上げかける、その時。
続いていた絶叫が、ぷつりと途切れた。
「あ……」
誰からともなく、声が漏れた。
ガタタン。ガタタン。ガタタン。
レールの音だけが車両を満たす――その時。
――あはははははははは!
「っ……!?」
全員がぎょっと、肩を竦めた。慌てて周囲を見回す。誰もいない。笑っている者など誰もいない。それなのに。
――あはははは! あーははははははははは!
甲高く細い声。子供のものだった。それは乗客達の耳に不快なひっかき傷を残し、そして、……消えた。
ガタタン。ガタタン。ガタタン。
今度こそ、静寂が車両を支配した。
――その数刻後。
都内のとある場所で、男が一人、急性心不全で死亡した。
新聞の片隅にすら載らない、出来事であった。
2009年11月23日



